未来の自分のために。一人一人の生き方を認めることから始めよう。


一昨日、上司に提案書を出して、自分の考えていることとやりたいことを伝えた。




「提案内容は具体性に欠ける」と言われた。
その通り。内容はかなり抽象的。「自分には何ができるのか?」を伝えなければ人を説得することも、動かすこともできないね。
実際にまだそこまで考えきれていない。ただ考えが聞きたかったのと、議論がしたかった。

上司とは真剣に話し、仕事や会社に対する考え方に触れることができた。
こういう話を真剣に聞いてくれるところはウチの上司のいいところだよな。
そのときのやり取りと感じたことを記録。




議論のあと。感じたのは「会社」と「個人」のなあなあ加減。
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オレ:会社は、会社そのものが残ることしか考えていない。
   立ち行かなくなれば、人を切って延命措置を講じるだけ。
上司:会社が残ることで従業員も生き残れる。
   500人が300人になったとしても300人が残れる。
   慈善事業じゃないだろう。
オレ:それはまったくその通りだけど。
上司:言われたこともろくにできない人間はショックを与える
   べきだとは思わない?ウチの会社はぬるい。
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確かに、ぬるいと思う。
個人の場合、極端な話だがネジを締め忘れて「すみませ〜ん」とヘラヘラしていても、ちょっと怒られるだけで給料もそのまま。個人の考え方次第ではいくらでも楽をして居座れる気がする...

会社のことも考えてみる。500人の内、200人がいなくなったとしても300人が残って会社は存続していける...
でもその考えが将来会社を潰すのではないか?
根本的な解決を考えない、楽してその場をやり過ごす、人件費を削減すれば少しは命が延びる...
短絡的な延命措置。いつか崩壊する。

同じだ。
会社も個人もぬるいのだ。




想像力を働かせる
時代の流れ、日本の製造業の状況、会社の向かう方向を考える。
このままの状態では、この先会社が立ち行かなくなる時がきっと来る。
このままの状態では。
それは誰が考えてもそうである。容易に想像できる未来のひとつ。

だから、
これから迎えるであろう未来のために、今、何をするかを考える必要がある。


上司との議論に戻る。
会社が残り、300人が残るために200人の犠牲は仕方がないという話。

オレはむしろ、人をどうやって生かし、伸ばすかを考えることこそ会社が存続するために必要なのではないかと思う。
なぜ?ちょっと長くなるけど考えたことを書いてみる。



会社が考える力を持った1人の人間だと想像してみる。
会社は生き残る事を考える。
生きるか死ぬかの危険な状況に追い込まれたとき、片腕がなくなっても、失明してでも、ただ生き残ることを考える。
腕や目のために命を落とそうとはしない。


だけど「会社という人間」と「個人」には決定的な違いがある。
「会社という人間」は「個人」の集合体である。

なくてはならない絶対的なパートナーとして互いに存在しているわけではない。
見切りをつけ、違う集合体に入ってみたいと思っちゃえば、個人は「会社という人間」の一部から離れることができる。離れるだけなら、それはもうすぐにでもできる。

1人や2人減ったところで、「会社という人間」はへっちゃらだ。
だけどどんどん数が減っていき、主要部分を担う人間までもがいなくなってしまったら...?

問題はそれだけではない。
ただただ、「この人のカラダの一部でいたい」と考える個人もいるかもしれない。
居心地がよく、一部になっていればがんばらなくても人生が終わっていく...

個人の思考停止はやがては「会社という人間」の動きを鈍くし、制限する。


考えれば考えるほど、オレにはお互いにとって本当に良くない未来が待っているとしか思えない。




まずは会社が「人を減らさない」ということを大前提とする
「人は減らさない」
これを大前提においたらどうだろうか?
「人を減らさない」ということは、会社は今のぬるま湯のままでは無理だ、と引き締まる。
今でも考えていないことはないと思うけど、どうやったらそれが実現できるか、もっとよく考える。
個人も引き締まる。会社の体力が減ってくれば、皆で痛みを分かち合わなければならないし。


なにより、この前提はお互いの思いやりに繋がるきっかけを作る。
つらいときは痛みを共有し、うれしいときは喜びを共有する。

相手を理解し、思いやる。その中で、強い連帯感や信頼が生まれる。

これはかなりキレイごとだなぁ、とも思うけど。
つらいことでも喜びでも、感情を共有し合ったときの連帯感や信頼はなにものにも変えがたい、と。






一人一人の生き方を認めることから始める
提案書では、個人が自分らしく生きて自由な発言ができる場を作ることこそ、道を切り開くために必要だ、と書いた。
考えているうちに色んな方法があるんだろうな、と思い始めている。

オレの今の考えは数多くある切り口の中の1つ。

やり方も方法も正解も1つではない。
ただ、お互いを尊重し合いながらも自分を表現し、気持ちを共有することは必要だ。


会社は個人のため、個人は会社のため、、、
そんなきれいごとはこの際どうでもいい。

すべてをオープンにし、受け止め、受け入れることから始めよう。
一人一人の生き方を否定せずに、認めることから始めよう。

そして、未来の自分はそこから生まれるのだと信じる。

さあ、生きていこう!

長いのに読んでくださった方々、本当にありがとうございました。


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